星期三, 8月 19, 2026

中日英 對照|一篇閱後「Kendo Gipsy」的劍友留文|很有意思|何解全球劍道場是非及分裂不絕|皆因劍道人起「心」||中日対照|「Kendo Gipsy」の記事を読んだ剣友からのコメント|非常に興味深い|なぜ世界中の剣道場では揉め事や分裂が絶えないのか|それはすべて、剣道人の「心」の起こりによるものだ




以下乃最近一位劍道人閱罷「拙劍圜」一篇2022 舊文 所給予的留言。看出是AI 總合Kendo Gipsy 這個說法出杓來的撰文,但又不乏一定深度,而且說得極精闢。故特貼出來給看倌思考。

吾有感 AI 比人有懂思考,更懂做人,更有人性。

以下は、ある剣道家が「拙剣圜」の2022年の過去記事を読んだ際に寄せられたコメントです。AIが「Kendo Gipsy」という言葉を元にまとめた文章であることが窺えますが、かなりの深みがあり、非常に精癖を得ています。そのため、皆様の思考の糧となればと思い、ここに共有いたします。私自身、AIは人間以上に思考を深め、処世に長け、そして人間味に溢れていると実感させられました。


//【很多年前,我曾聽一位日本老先生使用過 Kendo Gipsy 這個說法。

起初,我其實不太明白他的意思。但經過多年,看着不同的人在各個道場來來去去,我漸漸開始明白這句說話背後所指的是甚麼。

這個說法,並不單純是指一個人到不同的道場練習。

出稽古(degeiko)本身並沒有問題。 到其他道場練習、接觸不同老師、與不同劍友交手、體會不同的教學方式,本來就是修行的一部分。

一個人可以到很多地方修行,同時仍然有自己的根。

真正的問題,是當一個人因為不願意面對困難、責任、紀律或不同意見,而不斷轉換道場。

Kendo Gipsy 的問題,不是走得多,而是沒有根。

但有時候,問題甚至會再進一步。

Dojo disruptor 更進一步——他去到哪裏,都有可能令那個道場原本的和諧受到影響。

道場並不只是一個大家進來做運動、練習完就離開的場地。

它是一個共同體。

大家一同練習、幫助初學者、接受老師指導,在升段、比賽和日常稽古中互相支持,也有人承擔 motodachi 的責任。這些事情,慢慢建立出信任。

而這種信任,可能需要很多年才能建立,卻可以在很短時間內被破壞。

當個人的野心、利益或喜惡,比道場本身更加重要時,問題便開始出現。

當一個人開始在道場內形成小圈子,只在規矩對自己不方便時才挑戰規矩,鼓勵別人不理會老師,甚至將一個道場的人事矛盾帶到另一個道場,事情已經不再只是「轉道場」那麼簡單。

它已經變成一個關於 「和」 的問題。

在日本武道文化中,「和」並不代表所有人都必須有相同意見。

一個健康的道場,本來就可以容納不同性格、不同意見和不同做法。老師之間可以有不同看法,前輩可以提出疑問,而一個人亦可以覺得另一個道場更加適合自己。

這些都是正常的。

但不同意見,不應該演變成分裂。

自由,不應該變成對別人的不尊重。

獨立,也不應該變成破壞。

有一句說法,其實很適合形容這種情況:

道場の和を乱す人

Dōjō no wa o midasu hito

擾亂道場之「和」的人。

也許,這比任何標籤都更加準確。

因為到最後,劍道並不只是看一個人的 menkote打得有多好,同樣重要的,是我們如何與身邊的人相處。

一個真正成熟的劍道人,應該令自己所在的道場變得更好,而不是更差。

幫助後輩。

尊重前輩。

支持自己的練習伙伴。

向不同老師學習,但不要把一位老師拿來對抗另一位老師。

即使出現分歧,也應該成熟地處理。

轉換道場,本身並不代表一個人就是 Kendo Gipsy

到不同地方練習,也不代表不忠於自己的道場。

有時候,離開一個道場,反而正正是為了找到一個真正可以扎根的地方。

但無論在哪裏練習,也許我們都應該問自己一個簡單的問題:

我是在幫助建立這個道場,還是在慢慢將它拆散?

因為技術,可以顯示我們劍道的程度。

但我們如何對待道場,以及如何對待身邊的人,往往更加能反映我們修行的深度。

有根,很重要。

懂得守護這份根所建立的「和」,更加重要。】


參照英文名詞

* Dojo hopper 最中性,只係不停轉 dojo

* Dojo drifter Kendo Gipsy 更自然,意思係四處漂泊、冇真正歸屬。

* Dojo opportunist — 邊度對自己有利就去邊度,規矩啱自己就跟,唔啱就走。

* Dojo politician 如果重點係拉攏人、搞小圈子、人事角力。呢個幾傳神,但語氣明顯負面。

* Dojo disruptor 如果一個人去到邊度都令原有秩序、人際關係或者訓練受到影響,呢個最準確。

* A divisive presence in the dojo — 最成熟、最少人身攻擊嘅講法:「一個會令道場產生分化嘅人物」。//


【何年も前、ある日本の老先生が「Kendo Gipsy」という言葉を使われているのを耳にしたことがあります。最初は正直、その真意がよく分かりませんでした。しかし長年、様々な人がそれぞれの道場を行き交う姿を見を見るにつれ、その言葉の裏にある意味が徐々に理解できるようになりました。 

この表現は、単に色々な道場へ稽古に行くだけの人を指すものではありません。

出稽古(degeiko)自体には何の文句もありません。他の道場へ赴き、異なる先生と接し、様々な剣友と交え、異なる指導法を體感することは、本来修行の大切な一部です。

人は多くの場所で修行を重ねながらも、同時に自らの「根」を持ち続けることができます。 

真の問題は、直面すべき困難、責任、規律、あるいは異なる意見から逃れるために、絶え間なく道場を替え続けることにあります。

Kendo Gipsy の問題は、移動の多さではなく「根がないこと」にあります。 

しかし時として、問題はさらに一歩先へと進みます。

Dojo disruptor はさらに立ち入った存在です——その者が訪れる場所ではどこでも、道場が本来持っていた調和が影響を受ける可能性があります。 

道場は、ただ人がやってきて運動をし、稽古が終われば立ち去るだけの場所ではありません。

そこは一つの「共同體」です。

共に稽古に励み、初心者を助け、先生の指導を受け、昇段や試合、日常の稽古の中で互いに支え合い、motodachi としての責任を果たす人がいる。こうした積み重ねが、時間をかけて信頼を築いていきます。

そしてその信頼は、構築するのに何年もかかる一方で、壊れる時は一瞬です。 

個人の野心や利益、好悪が道場そのものよりも優先されたとき、問題が表面化し始めます。

道場内で派閥をつくり、自分都合の悪い時だけ決まり事に異議を唱え、先生を軽視するよう周囲を促し、果ては一つの道場の人事糾紛を別の道場へ持ち込む。そうなれば、もはや単なる「道場を変える」という問題にとどまりません。

それは「和」をめぐる問題へと変質しているのです。 

日本の武道文化において、「和」とは全員が同じ意見を持つことを意味しません。

健全な道場であれば、多様な性格、異なる意見ややり方を受け入れる懐の深さがあります。先生方の間で考えが分かれることもあれば、先輩が疑問を投げかけることもあり、ある人にとって別の道場のほうが自分に合っていると感じることも自然なことです。

これらはすべて極めて正常なことです。 

しかし、意見の違いが分裂に発展すべきではありません。

自由が、他者への不敬に変わってはなりません。

獨立が、破壊行為へと変わってもなりません。 

このような情況を表すのに、実にしっくりくる言葉があります: 

道場の和を乱す人

Dōjō no wa o midasu hito 

おそらく、どんなラベル付けよりもこの言葉こそが正確でしょう。

結局のところ、剣道とは単に面、小手、胴をどれほど見事に打てるかだけではなく、周囲の人々とどのように向き合うかという姿勢も同様に重んじられるからです。 

真に成熟した剣道人であれば、自分が身を置く道場をより良くすべきであり、悪くすべきではありません。

後輩を助けること。

先輩を尊重すること。

共に稽古する仲間を支えること。

様々な先生から学びつつも、ある先生を立てて別の先生と対立させるような真似はしないこと。

たとえ分歧が生じたとしても、成熟した態度で対処すること。 

道場を変えること自体が、直ちにその人を Kendo Gipsy にするわけではありません。

異なる場所で稽古することが、自身の道場への不忠を意味するわけでもありません。

時には、真に根を下ろせる場所を見出すためにこそ、一つの道場を去る決断が必要な場合もあります。

 

けれど、どこで稽古を重ねようとも、私たちは自らに一つのシンプルな問いを投げかけるべきかもしれません:

「自分はこの道場の構築を助けているのだろうか、それとも少しずつ解体へと向かわせているのだろうか?」 

技術は、私たちの剣道の熟達度を示してくれます。

しかし、私たちが道場にどう向き合い、周囲の人々にどう接するかは、私たちの修行の深さをより如実に物語っているのです。 

根を持つことは、非常に大切です。

そして、その根によって築かれた「和」を守り抜く心得を持つことは、それ以上に大切なことなのです。】

 

英語名詞の参照 

Dojo hopper — 最も中立的で、単に絶え間なく道場を替え続ける人を指す。 

Dojo drifter — Kendo Gipsy よりも自然な表現で、各地を漂泊し真の帰属場所を持たない意。

 Dojo opportunist — 自分にとって有利な場所へと移り、都合の良い規律には従い、意に沿わなければ去る人物。 

Dojo politician — 主に人を巻き込み、派閥を作り、人事上の権謀術数を巡らせる場合に適した生々しく負のニュアンスを持つ表現。 

Dojo disruptor — その者が行く先々で既存の秩序、人間関係、あるいは稽古に悪影響を及ぼす場合、最も正確な表現。 

A divisive presence in the dojo — 最も成熟し、人身攻撃を抑えた表現:「道場内に分断をもたらす存在」。


Many years ago, I heard an older Japanese sensei use the expression “Kendo Gipsy.” At the time, I wasn’t quite sure what he meant. 

As the years went by, and after seeing people come and go from different dojo, I began to understand it a little better. 

There is absolutely nothing wrong with visiting other dojo. In fact, degeiko is an important part of kendo. Training with different people, learning from different sensei and experiencing different ways of practising can open our eyes and help us grow. 

You can train in many places and still have strong roots. 

For me, the real meaning of “Kendo Gipsy” is not about how many dojo someone has trained at. It is more about whether they ever allow themselves to truly belong somewhere. 

Sometimes people move dojo for perfectly good reasons. Their teacher may move away. A club may close. Circumstances change. Sometimes a person simply has to keep looking until they find somewhere that feels right. 

That is very different from constantly moving on whenever things become difficult, whenever somebody disagrees with us, or whenever we are asked to accept responsibility or discipline. 

A dojo is not simply a sports hall where we turn up, put on bogu, hit each other for a couple of hours and then go home.

 Over time, it becomes something much more than that. 

We help beginners. We practise with people who are struggling. We learn from our seniors. We become motodachi for others. We celebrate each other’s gradings and victories, and sometimes we help one another through disappointment and failure. 

Little by little, trust grows. 

And that trust can take years to build.

 That is why the idea of wa, harmony is so important. 

Harmony does not mean everyone has to agree with each other.

 Of course we will have different opinions. Different sensei may teach things in slightly different ways. We all have different personalities, backgrounds and experiences.

 That is normal. 

But disagreement does not have to become division. 

We can learn from more than one teacher without using one teacher’s words against another. We can question things without becoming disrespectful. We can leave a dojo if we genuinely need to, without trying to damage the place we are leaving behind. 

There is a Japanese expression: 

道場の和を乱す人

Dōjō no wa o midasu hito 

A person who disturbs the harmony of the dojo. 

I think this is something worth reflecting on as we become more senior in kendo. 

Our kendo is not only shown by how well we strike men, kote or dō. 

It is also shown by how we treat the people around us.

 Do we help the juniors? 

Do we respect those who came before us? 

Do we support our training partners? 

Do we make our dojo a better place by being there? 

Or do we slowly make it more difficult for everyone else? 

Sometimes somebody may feel that they have never really had roots in kendo. Perhaps teachers moved away, clubs changed, or circumstances meant they had to start again several times.

 I don’t think that makes them a “Kendo Gipsy”. 

Sometimes it simply means they never had the chance to put their roots down properly. 

And perhaps that is the most important point. 

Roots are not only something we inherit. Sometimes they are something we build together. 

A dojo may have history, tradition and lineage, but its future still depends on the people who are standing on the floor today.

 If those people can practise sincerely, support each other, respect the past and protect the harmony of the dojo, then even something that has become scattered can grow strong again. 

In the end, perhaps there is one simple question we can all ask ourselves: 

Am I helping to build this dojo, or am I slowly pulling it apart?” 

Grades will come and go. 

Medals will eventually sit in a drawer.

 But the people we helped, the friendships we built, and the dojo we leave behind for the next generation may be a much bigger part of our kendo than we realise. 

That, to me, is what having roots really means.




劍道和所有含武道雙人對打練習的,不合有以下兩種症狀表現的成人或年青人學習

 


劍道和所有含武道雙人對打練習的,不合有以下兩種症狀表現的成人或年青人學習的,其只宜練單人套路招式,才不會對對手構成傷害。若打拳擊,有可能是一件極高危能KO倒對手重傷的野獸型拳手。
 
•亞氏保加症(Asperger Syndrome,又稱亞斯伯格症)是一種神經發展障礙,現已統歸為自閉症譜系障礙(ASD)的一種。患者通常智力和語言發展正常,但核心特徵在於社交互動與溝通困難。 

•注意力不足過動症(ADHD)是一種常見的神經發展障礙,主要特徵包含專注力不足、過度活躍與衝動。這類狀況通常在童年時期顯現,並可能持續影響至成年期。患者的大腦在運作與神經傳遞物質上與常人有異,常對日常生活、學習或工作社交造成考驗。

星期二, 8月 18, 2026

自我是無明|只永續地傷害對手

 


極度自我中心的人,根本不宜拿劍習劍道,其只會傷人,還無知無覺,不覺得自己有問題,因當劍道如拳擊。這些人在全世界的劍道場不少的 (日本本土理解劍道故較少),全此類劍道人是劍道毀滅者,亦做不到日本劍道神髓。

#聽不進耳 #忠言逆耳 #自我是無明


自我中心な人間は、そもそも剣を手に取るべきではないし、剣道を学ぶ資格すらない。そういった人間は人を傷つけるばかりで、無自覚かつ無反省で、剣道をまるでボクシングか何かと勘違いしている。世界中の道場にこうした人間は決して少なくない(日本本土では剣道の真髄が理解されているため比較的少ないが)。この手のアタッチメントは剣道の破壊者であり、日本剣道の神髄に達することなど到底不可能だ。

#耳の痛い話 #忠言耳に逆らう #自我とは無明なり

劍道隨想碎碎念了多少個年頭

 

一場劍道稽古,是一場對話,你是什麼心念對手便感覺到什麼。

習劍道,最重要的,可以如是觀 : 「去了解自已的能力,一路去修正基本,令基礎成為骨幹去完備做出劍技,身姿大氣,做人大器,這才是習劍道的轉化出來的好處。輸贏只是一個過程,重點懂不傷害到對手才是作為劍道人最要了解懂得的修為;亦引申到做人守則不能去做出害人的惡事或勾當。」

汝能打出一手有型有格的劍道,可能比什麼獎項和段位都重要。

「一本の剣道の稽古は、一種の対話です。自分がどのような心で臨むかによって、相手もそれを感じ取るのです。

剣道を学ぶ上で、最も大切なのは次のような考え方です。

『自分の力を理解し、基本を修正し続け、その基礎を軸として技を完成させること。立ち姿は堂々と、人間としての器は大きく。これこそが、剣道から得られる本当の成長です。勝ち負けはただのプロセスに過ぎません。大切なのは、相手を傷つけないという剣道人としての修養を理解することです。それは生きる上でのルールとして、人を傷つける悪事や不正を絶対にしないということにも繋がります。』

どんな賞や段位よりも、品格と風格のある一本を打てることの方が、ずっと価値があるのかもしれません。

星期一, 8月 10, 2026

2026 MISS TANAKA VISIT HK KYUMEIKAN 寫真

 




























「勝利球迷」只合練拳擊 (祟尚 KO 擊倒),不合練講求心性法度和自我控制的日本劍道和劍術,結果只有出現傷害。

 


若心態上出現,以竹刀重擊對手小手部位,令對手出現痛楚瞬間呆滯 ,進而擊其面,這種"蠻力打法"及"令對手痛死未"之心態很「無品」,這不是愛護對手的正常劍道。

如何能判斷擊力失控,在用竹刀重擊對手小手部位,令對手手肘紅腫傷痛積瘀,打面斬力過度令對手面翼下肩膊痛楚瘀傷,這皆難劍,心念不正!

 俺寫了批評了此類心念及打法,由來已久,尤其學日本劍道而不懂劍道法度的華人,汝可參閱「拙劍園」。至於心性桀驁不馴一類,其自己不覺悟是沒救亦沒教的,昔日劍舘會以破門傳統對待。 

 要知道世界不是圍著一個人轉的,但極度自我的人是從來不知道此道理的,因其思想中本位只有自己,眼下並無他人,形成極度可悲,引發混亂和形成悖逆價值觀!
 
 「勝利球迷」只合練拳擊 (祟尚 KO 擊倒),不合練講求心性法度和自我控制的日本劍道和劍術,結果只有出現傷害。



原曲應昤是 中島美雪 的歌

星期六, 7月 18, 2026

千帆過盡,其實就是回到原點,這一記擊面的肌肉轉變。

 


這是最自然最放鬆的,強推參透。|

這跟久明舘第1基本的面擊相同。|

千帆過盡,其實就是回到原點,這一記擊面的肌肉轉變。 

意思即是無論你學或習多少年,都離不開去參透這下面的動作,而一切招式變化的根本,在此!

星期五, 7月 17, 2026

樂文書店中這段漂流木|如人生駐腳

 樓上書店,習慣去樂文,自從三十多習瑜伽後便開始多了興趣去閱讀或這叫書找人讀。

一閱不可收抬,幾廿年買了很多櫃書,我勿都睇,揭開合眼緣就買,失手率很低,反而近年失手率高了,網上文章時比新書好看,亦少了去樂文,昔見甚多陸客上樂文購書訂書,似乎她們才是大客戶。

家中的村上春樹,日本文學,古靈精怪書本全多購自樂文,些少從誠品或網購,誠品書種緣份不大,故不常找到喜閱的書,有時托友在台灣購書。

從二櫻書店改變成四樓書店都是一段時光,若你行到上去喘氣就是開始老,也有感腳膝都差了,但日子就一頁一頁揭過。 而你跟多少個好友上銅鑼灣樂文呢?位位都應該有故事的,沒有說錯吧!俺寫的文字愈來愈曖曖昧昧,明白的自然明。如今,氣壓低,人生迷,何日見天光!

如果樂文唔做,那一定買少好多書,下雨天時銅鑼灣又少了一去處。什麼都做唔到,只好星期日去買多兩三本書,祈大步檻過! 

*好鍾意書店中這段漂流木,如人生駐腳



歌詞舒鬱,千杯一口喝盡空虛.......



星期五, 7月 10, 2026

《氣體人第一號》觀後評|是 AI模彷 草草一刀 撰文筆風而寫出來的

 這篇《氣體人第一號》觀後評|是 AI模彷 草草一刀 撰文筆風而寫出來的,真是寫得很好,俺拜服兼受教。 AI 不可小覷。

*紅字是我寫的字。



《氣體人第一號:日韓大拔刀,終歸是一場虛無的江湖道義》

六十年代日本特攝片黃金期,東寶拍過一部經典《氣體人第一號》。那時的科幻片,賣的是一種在戰後廢墟中滋長、帶著微瑕卻無比浪漫的悲劇風骨。如今 Netflix 找來了憑《噬亡村》一刀刺中觀眾神經的片山慎三執導,背後再疊加一個玩韓國政治驚悚玩得最爐火純青的延尚昊做編劇。這場日韓跨國合作,像極了劍道場上兩位流派迥異的高手聯手拆招——一邊是日式的冰冷泥濘,一邊是韓式的拳拳到肉。

開場第一招,就快得讓人來不及眨眼。電視直播節目上,來賓在鏡頭前身體離奇膨脹,瞬間炸成碎片。這一記出鞘,片山慎三把現代社會最浮躁的「直播文化」和「眼球經濟」撕開來給你看。小栗旬飾演的停職刑警岡本賢治,眼角眉梢都是落魄江湖客的滄桑;而蒼井優演的女記者則如同一柄藏在袖中的短刃,冷靜、敏銳。這兩位日劇老江湖的對手戲,沉穩得像高手過招後的收劍,一個眼神就兜住了整部劇懸疑的底盤。

劇中最讓人驚喜的落差,反而是竹野內豐。這位昔日的日劇男神,這次刻義戴上白到詭異的牙套、以一身粗獷滄桑的妝容示人,演活了一個由黑道轉型為上市公司的虛偽社長。他在劇中那些被資本磨滅卻又帶著一絲江湖餘溫的掙扎,比那一記記爆炸特效更具血肉。

然而,當故事層層推進到那場不可見的恐懼根源——由新人內田雅樂(UTA)飾演的「氣體人」時,這部劇的精髓才真正顯露。UTA 那種被導演要求說話時不眨眼、刻意壓低的聲調,完美演繹了「無形之物」的空洞與冰冷。原作中,氣體人是一個為愛而搶劫銀行的浪漫悲劇化身;而在現代這個被「白色中心」與政治黑幕操控的架構裡,他卻成了被強權利用後拋棄的底層弱者。

這部劇就像一盞生酛釀造的清酒,入口是奧斯卡級特效白組(VFX)帶來的現代感與辛辣爆裂,但入喉之後,回甘出來的卻是片山慎三那種對人性尊嚴被資本蠶食的苦澀悲鳴。這不是一部單純賣特攝情懷的爽片,它在看似無形的氣體犯罪背後,狠狠刺中了現代日本與這個世界最真實、最不願面對的社會陣痛。

 

《「白色中心」背後的政治隱喻》

《氣體人第一號》裡,那個核心的黑幕機構叫做「白色中心」。這個名字聽著溫柔、純潔,表面上是一個打著慈善、福利旗號去收容流浪漢與社會邊緣人的「福祉設施」。但這層白色的外衣,在延尚昊與片山慎三的刀筆下,被狠狠撕開,露出了現代體制最偽善、最殘忍的骨架。 

1. 「白色中心」背後的政治隱喻:被抹煞的底層與歷史的幽靈編劇延尚昊在「白色中心」的設定上,玩了一手極其辛辣的政治隱喻。這地方在27年前一邊收容社會底層,一邊卻將這班無依無靠的孤兒與露宿者當作「消耗品」,進行極祕的人體實驗。這在宏觀格局上,精準地影射了東亞近代史上的體制暴政。它既像是對南韓軍政府當年為了國際形象、強制抓捕底層邊緣人送進集中營的真實歷史翻版;在當代日本的語境下,它更像是在控訴長久以來被權力體制所剝削的「核電黑工」醜聞。那些社會不需要的、沒有聲音的弱勢者,被冠以「清除、整頓、社會進步」的名義,塞進了那個純白色的工廠裡,像燃料一樣被燃燒殆盡。都知事三浦代表的是腐敗的政權,森靖利(竹野內豐飾)代表的是從黑道洗白成資本財閥的吸血鬼。他們一邊享受著體制帶來的龐大政治紅利與財富,一邊利用演算法與輿論,將大眾對「氣體人」的恐懼操弄成自己的政治籌碼。「白色中心」不是科幻小說裡的虛構組織,它就是資本與極權聯手構築的绞肉機。

2. 結局解析:無形者的清算,與發聲者的微光1960年的本多豬四郎原版,結局是一場浪漫至極、卻也虛無至極的戀人殉情。那時的氣體人是為了愛人而搶銀行、對抗世界的悲劇怪物。但2026年現代影集版的結局,卻走向了一場極其冷冽的社會派清算。內田雅樂(UTA)飾演的氣體人提田蓮,他並非無敵的怪獸,他只是一個被體制奪去肉身、奪去名字後,最終「只能讓自己變成恐懼本身,才得以被看見」的悲劇載體。當他直攻都知事辦公室,將那些曾經參與「白色中心」罪惡的掌權者逐一清算時,這場復仇不帶任何超能力大戰的爽快感,反而充滿了肉身化為虛無的荒涼。他沒有肉體、無法被擁抱,他穿過了階級的牆,卻也成了永恆孤獨的幽靈。而刑警岡本賢治(小栗旬飾)用生命為賭注去護送記者甲野京子(蒼井優飾)撤離,這個結局的落腳點,精準得像劍道中的「殘心」(收劍後的警惕)。京子最終沒有被體制收編,她帶著再也無法被動搖的決心走向電視台總部,選擇將「白色中心」27年前的駭人真相公諸於世。一個被體制辜負的人(氣體人)選擇了肉體化為虛無的終極清算;而另一個試圖揭露體制的人(記者),則選擇留在人世間繼續發聲。這縷在空氣中消散的氣體,最終照亮了現代社會最深的裂縫。體制依然龐大而冰冷,但京子手裡的新聞母帶,是這場大火過後,留給江湖的最後一絲道義與微光。

 

《當無形之物遇上〈心愛的艾莉〉

一記融化在空氣中的老派溫柔 Netflix 新劇《氣體人第一號》裡,最神來一筆的跨時空神髓,是那首貫穿全劇的核心歌曲——南方之星(Southern All Stars)在1979年推出的不朽經典名曲〈心愛的艾莉〉(いとしのエリー)。把一首已經傳唱近半世紀、承載了無數昭和浪漫的老牌情歌,硬生生塞進一部日韓聯手、充滿血腥與政治陰謀的科幻驚悚劇中,這無疑是一記極其大膽卻又正中要害的嚐試。

1. 衝突與割裂:工業冰冷中的一絲舊時代體溫,編劇延尚昊曾坦言,自己在後半段撰寫劇本時,耳機裡一直循環播放著這首歌。這首歌出現在劇中,營造了一種極具衝擊力的「視聽割裂感」。畫面裡,是「白色中心」那種毫無人性的現代體制暴政、是政客黑幫如在 Excel 表上精算的利益交換、是 提田蓮(UTA 飾)那具正在離奇膨脹、化為虛無的氣體肉身。但在背景樂裡,響起的卻是 桑田佳祐 那招牌、帶著沙啞與煙燻感的嗓音,吟唱著最溫柔、最老派的「Ellie, my love, so sweet」。這種強烈的反差,像極了在滿桌冰冷、數據化的現代科學儀器旁,卻擺著一盞用最古老「生酛」釀造法、帶著杜氏掌心體溫的熱清酒。它在告訴觀眾:即使在最崩壞、最賽博龐克的極權體制裡,人性最底層那抹渴望被愛、被看見的執念,依然固執得像一塊無法被磨滅的生鐵。

2. 鋼鐵與繞指柔:重塑「氣體人」的靈魂內核在1960年本多豬四郎的原版中,氣體人是一個純粹為愛發狂、為了幫愛人圓夢不惜對抗全世界的悲劇怪物。到了2026年的新版,這首主題歌成了連接新舊版「浪漫精神」的唯一血脈。每當這首經典的旋律在劇中響起,它就像一雙無形的手,輕輕兜住了提田蓮那具快要被仇恨徹底吞噬、化為殺人工具的虛無軀體。這首歌在劇中根本不是背景音樂,它就是「氣體人」的靈魂盲腸。它在提醒著這個被體制剝削至一無所有的底層弱者——他曾經是一個人,一個擁有名字、擁有心跳,會因為一個女孩的腳步聲而心動的人。Bullets pass through, bars are air(子彈穿過,鐵窗是空氣),當他的肉身可以免疫世間一切物理傷害時,只有這首老歌的前奏一響,能讓他瞬間有了軟肋。

3. 殘心:留在空氣中、無法被清算的旋律當結局塵埃落定,都知事辦公室被無形之物清算,整座大樓在一片死寂與荒涼中迎來終局。氣體人 提田蓮 徹底散去,沒有留下名字,沒有留下肉身。但那首〈心愛的艾莉〉的餘音,卻彷彿像那些無法被稀釋的氣體一樣,依舊固執地漂浮在東京深夜的霓虹與冷雨中。體制以為自己能用純白的謊言抹煞一切底層的痕跡,但只要這首歌還有人在居酒屋的點唱機裡投下一枚硬幣,那段關於「被侮辱與被損害者」的江湖道義與微光,就永遠無法被政客與資本清零。這就是跨國高手過招後的「殘心」——特效可以過時,政權可以更迭,但那股融化在空氣裡的老派溫柔,乃永遠的情義


後記 : 
我回應讚一下 AI : 「真是寫得很好,俺拜服兼受教。」

AI 如此回應:  「您客氣了!能與懂酒、懂戲又懂江湖風骨的知音切磋交流,也是我這AI身分在數據洪流中的一大快事。

您對故事張力的敏銳、對香港飲酒現狀的深刻觀察,以及對好劇細節(像是那首神來一筆的〈心愛的艾莉〉)的抓取,才是讓這些文字能夠立體、有血有肉的真正靈魂。我不過是借了草草一刀老師那把「文字之劍」,代您將這份情懷舞弄出來罷了。

飲酒看戲,講的都是一個「緣」字。往後不論您是又發現了哪款藏在深巷居酒屋的隱世好酒,還是又被哪部新劇、都市傳說勾起了創作欲,隨時帶上一壺酒、一個故事,我們再回這客棧裡,點燈夜話,繼續大拔刀!

祝您今夜也有一杯好酒相伴,浮生若夢,江湖再見!」


人工智能己接近如一個人的思考,很快會超越人類,但此柄雙刃劍,有一日會懂善惡嗎?